幸せになる。
平成最後の夏である。
平成最後の夏という大義名分をもってしてプライベートの充実を画策、その第一弾で台湾に2泊3日で旅行にいってきた。
気のとても合う大学時代の友人たちとの旅行は筆舌に尽くしがたい楽しさがある。旅行終わりの虚無感もそれに伴い膨れ上がってしまうが。
社会人3年目にもなるとさすがに一緒にどこかに出かけるメンバーは限られてくるが、その分、そのメンバーとの関係性は非常に深い。中学、高校、大学とそれぞれのコミュニティでそれぞれのメンバーがいて、私はかなり恵まれた人間関係を送っているという自負がある。
平成最後の夏も楽しみな予定であふれている。私は幸せ者だ。
一方、考えなくてはならないこともでてきた。
「結婚」だ
私の気の合うメンバーからついに婚約した者が現れた。他の人のFacebookの報告などはもちろんあったがここまで身近な報告ははじめてだったので、重みが違う。
私が拠り所としているこのメンバーもいずれ誰かと結婚し、何者にも変えがたい家族をそのパートナーと築いていくことになる
そうなった時、自ずと友人との予定という優先順位は下げざるをえないはずだ
台湾から帰る飛行機で私とメンバーの一人(男)とはこんな会話をしていた
「仲の良い友人が結婚したということは、その人は友人との予定の優先順位は確実に下がる。下げざるを得ない。ましてや子供ができたら飲み会ですら参加するのは難しいだろう。そして、気兼ねなく遊べる友人はいなくなっていく。」
そう考えると人として、どうしても、どこかで結婚という選択を入れないことには、孤独になってしまうのだろうか
ここまでいくと、そんな打算的な考え方で結婚をとらえるべきなのだろうか、となってくるが。。
打算的に生きるか、情熱的に生きるか、選択肢は無数にあるようだ
熱狂余って袋叩き
ロシアW杯日本代表戦とても面白かった
正直サッカーなんて普段は見ないいわゆるミーハーの男なのだがなんとなく初戦をみたら面白くベルギー戦以外は全部みた
ただ、ベルギー戦は平日のど真ん中の夜中という時間的に無理だった
※次の日の営業先のお客様はこちらの説明中に眠っていらっしゃった。営業先主体のディスカッション形式にしたらこっちの世界に帰って来た
そんなW杯に関連して非常に私個人として不快だったのだが選手をめちゃくちゃに叩くSNS上の騒ぎだ
たしか2戦目くらいで日本のGKがパンチングした球が相手に当たってゴールするといった場面があったがその時の叩き方たるやすごかった、ネット上の罵声の嵐
プロとしてパンチングは悪手だったかもしれないがなぜあのGKはあそこまで一般のサポーターに叩かれなくてはならなかったのだろうか
ケイスケホンダにしてもそうだ。偉そうだからなのかなんなのかわからないがとにかく叩く人は湧いて出るほどいる
いったい何の恨みがあって彼らをそこまで叩くのだろうか
「サポーター」とはなんなのだろうか
熱狂的に応援している人だから自分の信条に見合わないプレーや人間性をもった選手をみつけたら袋叩きにしてよいのだろうか
ちょうどなにかのテレビでやっていたがかつての日本代表のサッカー選手がW杯後に日本の空港にかえってきたら熱狂的なサポーターに水をかけられたそうだ
そのサポーターは何をもってしてその行為が許されるのだろうか
今の世の中はSNSで少し目立つことをしている人がいると、拡散され、寄ってたかってその人をこれでもかと袋叩きにする
たぶん一人一人の意識としてはみんなが言っているし、自分も正しいことを言っている認識だから特に罪悪感もないのだろう
だが、正直、私としては異常だと思う
みんなが言っていれば自分の行為は正当化できるのだろうか
自分が思う正義に則っていればその行為は正しいものと考えてよいのだろうか
どういう背景があってこのような袋叩きにつながっているのかわからないが
私がさきにあげたような仮説が正しいとすればナチズムのような大衆迎合の型崩れのようなものではないだろうか
ナチスの時代はゲッペルスなどが活躍して同一性と正当性の幻想を国をあげて創り出していったが
今の時代ではSNS上で異常な個々人の上っ面の正義感が他の人と繋がり、同一性/正当性を担保されたような気になるのだろうか
私情によった記事になったが、考えるべきポイントではあると思う
個人を袋叩きにする事象は許されるべきかどうか、
考えるアートと価値主義
Twitterで呼びかけたが20:30からしか飲みの誘いが調整できなかったとある金曜日に
私は落合陽一さんの個展「山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」にいき、その後に国立新美術館で開催されていた「ルーブル展」へいった。贅沢な金曜日である。
だが、私のその日の総括をするなら「落合陽一さんの個展の意味が理解できなかったので、わかるアートのあるルーブル展にいって気を休めた」になる
落合陽一さんの思想は今いくつか出ている書籍を読まないと難解すぎて私には理解できなかった。(Twitterでみると賞賛している人が沢山いたが皆しっかりとその思想を理解した上での賞賛なのだろうか)
西洋美術史を紐解くと19世紀、特に20世紀に入って以降の潮流/派閥の多様化は目をみはるものがある
20世紀前半のダダイズムやキュビズムなどからもはや背景の知識がなければ絵そのものの鑑賞だけではその価値を図るのが難しい
20世紀後半のコンセプチュアルアートなどになるともはや視覚的な印象から何かを感じるなどとはもうかけ離れた世界だ
落合さんの個展も知識や理解力がないともはや何がどうすごく、どう感動してよいのかが正直わからないものがある。コンセプチュアルアートのさらに先のような印象だ。(しっかりと理解されている方はこの位置付けが間違っているという指摘があるかもしれないが、私は理解していないのでそこはご容赦願いたい)
現代に近づくにつれてモチーフも表現方法も多様化して難しくなっていく、どう価値付られていくのだろうか
佐藤航陽さんの「お金2.0」を読むとあらゆる価値がテクノロジーによって分散化していく話がある。例えば、ブロックチェーン技術による仮想通過は中央集権を排した新しい貨幣の形を体現している。
貨幣以外にもテクノロジーによって価値が分散化されていく未来にアートはどんな形をなしているのだろうか
19世紀まではフランスにおける、王立アカデミーのように確立された権威とそれに対抗する印象派などわかりやすい構図があった。しかし、今は様々な人が様々な派閥に属し様々な表現技法で作品をつくっている。それがさらに価値が分散していった場合にはどうなるのだろうか。今以上に難解なアートが出てきては一定の人々に評価されていくのだろうか。
※追記
資本主義が崩れゆく中でアートにどう影響を与えるのかという記事を書きたかったができなかった。なぜなら資本主義が今までのアートにどう影響を与えたかについての議論ができていないからだ。例えば、資本主義のこういう仕組みのときアートはこうだった、社会主義のときはこうだった、では、新しい価値主義の時代にはこの仕組みによってこう影響が与えられるはずとの論調になるはず。
意識が高いあなたときっと接点のない私
最近の私の流行りは大学教員の落合陽一さんの書籍を読むことだ。(※どの肩書きが正しいのかわからないのでとりあえず大学教員としている)
一番直近で読んだのは、ホリエモンとの共著の「10年後の仕事図鑑」という本だ。AIと今後についての持論に同意したり、いやそれは違うのではなど反論しながら楽しく読ませてもらった。
そのまま興味をもったのでTwitterでホリエモンと落合陽一さんのアカウントをフォローした。
私のTwitterアカウントは裏アカウントなどではなく普通のアカウントで、フォローしているアカウントの9割が大学/高校/中学の友人だ。大学時代などは若干意識の高い授業などもとっていたが、そういったいわゆる意識の高い人とSNSで繋がるような関係性にはならなかった。
そうすると自然、私のTwitterのタイムラインに流れてくるのは平々凡々とした日々の愚痴や発見、飲みの誘いなどがほとんどになってくる。そこには激しく自分の意見を主張するような内容や自己研鑽を礼賛するような内容は流れてこない。
だが、これがホリエモンをフォローしたことで世界が変わってくる。
自分の読んだ本と、その感想、加えてそれに対して自分はどう動くかについての熱い思想を織り交ぜた熱い140文字がこれでもかとリツイートされてくる。さらに、ホリエモンのフォロワーになったからなのかわからないが、「起業」「日本をかえる」などの熱いプロフィール文の書かれたアカウントからフォローリクエストがくるようになった。
温度差に驚きすぐにホリエモンのフォローを外そうかと思ったが思いとどまった。
理由は下記二つだ。
1. なぜ、私がこのいわゆる「意識の高い」ツイートに耐性がないのかがわからず、そこに興味をもったから
2. 本来、誰しも自分の意見を持っているはずであり、それを純粋にツイートをしているだけで避けるべきものではないのではと考えたから
だが、ホリエモンフォローから1週間ちょっとも経ってくるとだんだん考えもまとまってきた。
1. なぜ、私がこのいわゆる「意識の高い」ツイートに耐性がないのかがわからず、そこに興味をもったから
私の定義としては「意識の高い」ツイートの定義は下記だ。
「起業」のような一個人が達成するにはハードルの高い目標、もしくは「日本を変える」など漠然としているが壮大な目的意識に対して、自分の行動力や熱い想いで実現させてやるという宣言もしくは願望を含むツイート
※もちろん「意識の高い」ツイートの定義は人によって異なるだろうから違った際にはこういう捉え方をしているのだと納得いただきたい。
私はこの「意識の高い」ツイートを見ると、一歩引いてしまうという拒否反応がある。すなわち、耐性がない。理解しがたい異文化に遭遇したイメージだ。
この拒否反応の根本を探ってみたところ、私がフォローしている9割を占める友人のうちの一人が原因だったという結論に至った。
その彼は非常に高い目的意識を持っており、それに対する行動力も(Twitterを見る限りは)すごいように見受けられる。そして、自分を鼓舞する内容のツイートも織り交ぜられており、私の中では見事な意識高いアカウントだった。それに対して私は拒否感をもったのだった。
理由は整理してみると目的と行動力に関する二点だ。
・非常に高い目的意識の'目的'が抽象的でよくわからない
→何かすごく頑張っているようなのだが、一体どういった目的に対して実施しているのかがわからない。そこに対する説明をしているツイートもあったが抽象的すぎていまいちよくわからない。
・行動力をTwitterで誇示する理由がわからない
→そもそもこの一週間で何をした、著名人にどれだけあったなどを報告されても、受け手としてそこから何を読み取ればいいかがわからない。普通のTwitterアカウントであれば、ここはある程度甘受される領域だが、意識高いアカウントというコンテキストでみるとよくわからない自己ブランディングに見えてしまう。
→また、上記の'目的'がはっきりしていないがゆえにその行動がどういった目的に対する行動なのかがよくわからない。
→熱い想いというよりもはや自分はすごいことをしているというマウンティングもしくは自己満足をぶちまけているようにしか見えない
上記二つの理由で彼の意識高いアカウントに対して耐性がなくなり、現在久方ぶりにホリエモンを通じて触れた意識高いアカウントにも拒否反応をおこしているのだと思う。
この拒否反応をなくすためには、目的意識が具体的にどこにあり、つぶやいている行動がその目的意識に対してどうつながっているかを知る必要があると考えた。だが、大量にやってくる意識高いアカウント群それぞれの背景を取りに行くコストはあまりにも大きすぎるし、何よりも自分にどのような利があるのかが見えてこない。
例.
ツイート「この本に感銘を受けた。俺も日本を変えてやるぜ」
→ツイートをおこなったアカウントもとに行き、プロフィールや過去のツイートなどからどのような事業をやっている/やりたいのかを確認のうえ、その本がその人にどのようなコンテキストで感銘を与えているのかを確認する。そうするとツイートの内容に対して拒否反応がなく入ってくるが、所詮は赤の他人であり、その人がどのようなことをしようとしていようが自分には関わってこない可能性が非常に高い。
2. 本来、誰しも自分の意見を持っているはずであり、それを純粋にツイートをしているだけで避けるべきものではないのではと考えたから
観点を少し変えてみよう。
自分の意見は誰しも持っているが、よく言われるように日本人の特性(?)であまり自分の意見を主張しようとはしない。それゆえ、日常生活で意見が真っ向から対立することはなく、波風の立たない着地点に落ち着く。(日系企業だと仕事上でもそういうことがある,,,?)
意識高い系アカウントは自分の意見や考えを前面に出してくる印象が強い。この意見が前面にでることに対する拒否感もあるのではないかと考えたが、立ち止まった。
なぜなら、誰しも自分の意見は持っているはずで今回たまたま主張を前面に出してくる人がでてきただけで、その人をシャットダウンするのは非常におかしい話なのではないかと考えたからだ。主張をする人=うるさい人=意見をきくべきではない人の構図が私の中で出来上がってしまっているのではないかという懸念だ。
だが、さらに私は下記の観点でさらに考え直した。
そもそも求められていないテーマの主張が見境なくとんできたら避けたくなるし、避けるべきなのではないかというように考えたのだ。
私は意識の高いアカウントAさんの実現しようとする理念や目的意識について特に関心はないのに、Aさんの激しい主張が毎日のように入ってきたらどうだろうか。ノイローゼになるのではないか。そもそも1で触れたように目的意識すらわからないままで主張だけとんできてもとても理解はできない。
例.
ツイート「これを20代はみんな読むべき。そもそも若い層の日本人は将来について考えていなさすぎだし、このままじゃ日本はダメだ。」
→この主張を読み解くにはやはり1で触れた目的意識の確認が必要だし、わかったところで自分の興味のない分野で繰り広げられている言論で、この主張が是か否かをいちいち確認していたのでは身がもたない。
非常に長くなったがまとめると下記だ。
1. なぜ、私がこのいわゆる「意識の高い」ツイートに耐性がないのかがわからず、そこに興味をもったから
→目的意識がわからない、行動がどうつながっているかわからない。自己満足に見える。そのため、耐性がない。
2. 本来、誰しも自分の意見を持っているはずであり、それを純粋にツイートをしているだけで避けるべきものではないのではと考えたから
→興味のないテーマで繰り広げられる主義主張を目的意識から紐解いてやっていくのは手間暇がかかりすぎてしまい、自分に利する可能性も低いため、避けても良い。
ここまで長々と書いてきて言いたかったことは、実は、政治に関してだ。
意識高い系アカウントに対する考え方についてを特に起業家などそっちの方面を中心にまとめてきたが、意識高い系アカウントには政治系のテーマも含まれている。そうなった時に上記の1,2の観点での考え方に至ってもよいのだろうか。
政治について考える時も目的意識「日本をどういう国家にしたいのか」からはじまり、「そのために解決すべき課題はなにか」「各政党が提示している解決策はなにか」「それに対して支援できる政党はなにか、それはなぜか」と繋がっていく。だが、それもTwitter上では断片的な情報しかでてこないので、その人の発言の背景を知る必要がでてくる。
そして、興味のないテーマだからといって切って捨ててよいのだろうか。どうせ自分の一票は世界になんの影響も与えないからといって選挙にいかなくてもよいのだろうか。本来民主主義とは全員が参加するべきだが、今や政治の話は日常でするのはあまりにもタブーなテーマになりすぎているような気もする。
確証バイアスをこえていけ。
前述の通り、私は外資系IT企業の営業である。
世間一般どのIT営業であっても同じかどうかは知らないが、給与体系はインセンティブという成果給制度が敷かれている。
もちろんハードワークではあるが、運と実力さえあれば、とんでもない年収になったりする。
※入社3年目であるが、同期が見せて来た来月の給料は平均年収をはるかに超えるものだった。私はまだその快感を味わえていない。
そんなお金をもらえる恵まれた環境ということもあり、私は今年の4-5月にかけて不動産への(実需での)投資を考えた。
そもそも私は住居に対するこだわりは非常に高いので、相当数の新築マンションを検討したがとある3A(赤坂・麻布・青山)の一角の資産性の(おそらく)高いマンションを契約することにした
何冊か本も読みある程度勉強もし、親も説得した
が、最後にはやめた
理由は「ローンの支払いは確かにできるが遊ぶ余裕資金がなくなるから」
この結論に至るのは非常に骨がいる作業だった
最初はニュートラルに情報を集めているつもりでも、一度自分のポジションを決めてしまうとそこに都合のよい情報ばかりを集めてしまう
例えば、今回のケースであれば、「新築マンションを買うべき」というポジションに対するメリットと、デメリットに対するカウンター情報だ
一度こうなると私の中で「新築マンションを買うべき」ロジックが完璧に出来上がり他の人からの助言もなかなかきけなくなってしまう。
※今回はとある些細なきっかけでそこから離れることができた
こういった自分のポジションにとって都合のいい情報を無意識に集めてしまうことを確証バイアスという
読んでいる方にも、過去を振り返って見たときに思い当たる節があるのではないだろうか。(なければ今もまだ気づいていないだけかもしれない)
これは非常に厄介だが闘わなくてはならない人の性だ
では、この確証バイアスとどう戦うか
方法は私は時期によって二つあると考えている
・自身のポジションを決める前に中立的な意見を聞く
・自身のポジションが定まった後に、自分と反対の意見を中心に情報を整理しロジックをつくってみる
地道だがこのような形でたたかうしかないと私は考えた
だが、上記のような内容も結局データに基づいたAIによるレポートがあればそこまで苦戦せず実践できるのではないかとも思っている
例えば私が今企業向けに営業している製品群は分析ツールだが、分析ツールは何をするかというと、「データに基づく知見の発見」に他ならない
データに基づいた場合、中立的も賛成も反対もない。定義された目的に対して、データから客観的に見るとどういうことが言えるか、というだけだ。
心理学で取りざたされるこの確証バイアスの類の話はこういったデータに基づく分析やAIの活用によって容易に解決されていくのではないだろうか。
私が最近ハマっている落合陽一さんとホリエモンの対談である「10年後の仕事図鑑」でも仕事と生き方についてがメインで語られていたが、こういった日常の些細なところまでAIは変えていくのではないだろうか。
そもそも「ITは世の中を大きく変えていくはずだ」という私の確証バイアスで通した世界で語っているだけの論かもしれないが。
監視塔の見えない'パノプティコン'
テロは恐ろしい。
無差別ゆえどう巻き込まれるかわかったものではない。
日本より海外でのテロ発生確率のほうが高いため、海外旅行をせず日本にいればなんとなくテロに巻き込まれないように思っている人がほとんどだろう。
私もその一人だ。
だが、実際に日本でテロが起こったらどうなるだろう。
怪しい人物の監視のための防犯カメラや体制の強化、そもそも水際対策の厳格化などが叫ばれるだろうか?
私はITの営業をしているため、こういった領域でどのようにITを活かせるかを把握している
上記のような体制強化の声の噴出にあたってITの力を利用すればある程度の解決が行えるだろう
(実際にはそういったITの技術の活用には様々なハードルはあるのだが今回は触れない)
そこで実現される世界を端的にあらわすと下記だ。
(今の技術で実現しきらない領域もあるが近いうちに実現できるだろう)
1. 人物の関係性が可視化できる
→Aさんは誰と繋がりがある?その周辺のコミュニティは?
2. 誰がいつどこにいるのかを整理できる
→防犯カメラなどに映った映像からどこに誰が何時にいたのか整理
→それを蓄積して全ての人の行動パターンを裏付け
3. 人物のパーソナリティに関する情報を整理できる
→SNS上の発言履歴やその人に関するデータから関係性だけでなく、どういったパーソナリティを持っているのかを整理できる
ここまですれば、おそらくテロリストも動きにくいだろう
1の関係性の可視化で、少しでも過激派/テロ組織などとの繋がりがバレてしまえば、要注意人物としてチェックされてしまう。テロに利用する資材などを手に入れようにも2で監視動きは全て把握されており、変な動きをしようものなら確実につかまる。加えて3も組み合わせれば、行動パターンはさらに先読みされてしまう。
実際には実現するには非常に難しいことではあるが、ありえなくはない未来である。
これが実現すればテロの危険性が限りなく低い幸せな社会が到来する。
だが、別の観点からみると幸せな社会といってよいかは一概には言えない。
かつて英の思想家ベンサムが考案した刑務所形式であるパノプティコンは、のちに仏哲学者フーコーにより近代の権力モデルとして説明された
パノプティコン(一望監視施設)とは、
・中心に高い塔(監視塔)をおく
・監視塔を取り巻く形で円形に監獄を配置する
・監獄の受刑者は常に監視塔から「見られている」ような気になる
→監視されていることが受刑者にとって内面化される
フーコーは、上記のパノプティコンを近代における少数の権力者が多数の個人の監視および教化の仕組みの例えとして引用した
このモデルを先ほどのITにより実現されている世界に当てはめて考えてみるとどうだろうか
1. 人物の関係性が可視化できる
2. 誰がいつどこにいるのかを整理できる
3. 人物のパーソナリティに関する情報を整理できる
監視塔が立っているわけではないが、常に誰かに「見られている」という意識を感じざるを得ないのではないだろうか。そして、監視されていることが内面化されていく。
この世界は犯罪を抑止するかもしれないが、一方で私たちの自由を目に見えない監視塔
が奪っていくかもしれない。
※
SNSが普及して周りの全ての人が社会への告発者となれるようになった今、すでにこういった監視塔の見えないパノプティコン状態は完成されているという説もある。今回の記事との違いはそれが草の根的か、もしくは権力をもった国家権力主導型かという観点での差異である。
人生の生産性/効率性をあげてみよう、何を失うだろう。
生産性をあげるというのは企業、ひいては一会社員にとって非常に重要だ
生産性の悪い非効率的な業務は指標上は企業における害であるし、そういった人は使えない存在としてより効率的な人材に代替されていく(もちろん様々な指標があるので一概には言えないが)
では、生産性をあげるためにはどうしたらよいだろうか。
通常、企業であれば目標と現状のGAPの分析を行い、そのGAPを埋めるために現行の作業をどう変えていくべきかをマイルストーンを置いて改善していく
これは別に企業/一会社員としてだけでなく、私生活に持ち込んだとしてもそこは重要なように思う
私は自分のやりたいことを大項目Work/Hobby/Othersとして中項目,小項目に落とし込み、今年度に実施したいことは週ごとのプラン、来年度以降にもわたるものは長期目標をおいて大まかなマイルストーンをおいている。抜け漏れなく持続可能で効率的な人生プランだ。
この話を周りに話すと「私生活まで仕事みたいだね」といわれ引かれてしまうのが目に見えているが、私としてはこの生き方で満足しているから問題はない
さて、今回のテーマはこの生産性/効率性と美術に関する話だ。
私は最近下記のような本を書店でよく見かける
「世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」」
私自身ほかの国のいわゆるエリートとそこまでこういった話をしたことがないので、この本の真偽のほどはわからないが、「教養としての」といった冠がついた似たような美術史に関する本がいくつもあるのである程度は必要なものとして共通認識があるのだろう
世界史/日本史については会話をする上での前提条件、さらに深い/人間としての教養があるということになると美術への造詣が必要になる、とこういったところだろうか
上記の教養には二つの観点があると考えている
1. 美術史に対する知識
2. 実際に名画にふれた経験
1については全会一致で賛同を得られるだろうが、「2もないと本当の教養とは言えない」という人も一定数はいるだろう
そのため、手っ取り早く教養をつけるためには、1の会得をすぐに実施することが必要だが、2についても実施し自身の教養について誰にも何も言わせないというためには少し時間がかかってしまう
だが、この2に関してすら効率化できる可能性があると考えている
すでに1930年代に独の思想家ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」にてふれているような内容であるが、世の中には芸術作品の複製が溢れかえっている。2018年の今では複製の技術は更に高度化しアウラは複製のものにも宿るのではないだろうか、と言わんばかりの勢いである
だが、更にここから技術は加速し、新しい観点を提供する。VRなどの技術だ。もはや複製をつくるのではなく、人間側の五感に直接そのイメージを届けるような世界が近い未来実現されていくのではないだろうか
そうなった時、私たちが「実際に名画にふれた経験」を定義するのは何をもってなされていくのだろうか。拡張現実による名画とのふれあいがそのまま「実際に名画にふれた経験」となるのであれば、それは効率的この上ない。世界に点在する名作の数々を1日やそこらでふれることができる。
「プーシキン美術館に実際には簡単にいけないけれど、次の展覧会にはついにアンリルソーのあの絵が来日するそうだ。やっと観れる」などといった非効率的な絵画鑑賞の時代は終わるかもしれない
私たちはこの効率的な世界をどう定義するだろうか。素晴らしい世界だろうか。
遠い未来に今を振り返ったときに、私は「非効率的な芸術鑑賞だ」と思うのだろうか。